昭和49年09月28日 朝の御理解
御神訓ー、信心の心得「一、真の道をゆく人は、肉眼をおいて心眼を開けよ。」
「一、神の恵みを人知らず。親の心を子知らず。」
神様の御恵みを知る。御恩恵を知り、始めて神恩報謝の生活が出来るのです。親の心が分かって、はじめて親のいわば喜ぶ親孝行が出来るのです。本当の意味で、神の恵みが分かる、親の心が解るということは、話を聞いてこれも神様の御恵みだ。これも神様の御恩恵だぞと教えて頂くと、成程と合点が行きますけれども心の底から、その御恩恵に対していわゆる神恩報謝の心が湧いて、神恩報謝神様の御恩恵に対して、報い祭る生活というものはその前の。
真の道をゆく人は、肉眼をおいて心眼を開け。」と仰る、心眼を開かなければ、本当の事は、分からないと思うんですね。「真の道をゆく人は、肉眼をおいて心眼を開けよ。」そこで、私は思うのですけれども、信心は本気で心眼を開くと、心の目を開くことの私は精進だと思います。これは昨日の研修会の時に話が出たんですけれども、いろいろと神様からお知らせを頂く。言うなら心の目に映じてくる。
昨日、佐田さんところの久留米地区の共励会でしたか、ここも先生方が皆行きました。大変盛大な研修会共励会だったということですが、広雄先生が、あちらの御神前で御祈念中に、いろいろとそのいわゆる御心眼を頂いた。とにかく大黒様が無数である。前を向いておられる大黒様が、後ろを向かれとる。昨日は詳しく聞かせて頂いたんですけれど、それが段々カラーで頂いてね。それからその大黒様がよくよく見ると、言うならば合楽の御信者さんばっかりだったとかいうような意味の御心眼を頂いとる。
それが話を聞くとカラーでね素晴らしかった。しかもすうっとこう続けて頂いておられる。話を夕べ聞かせて頂いたのですけど、有難いなとこう思うんです。今合楽で言うならば、ちょっとした大黒様でした。もう九十体からで、その大黒様が今、お供えしとる大黒様が、皆出られると八十六体からなる。出られることになるわけですが、そういう大黒様がです。言うならば総動員してね、いわゆる合楽示現活動に参画しておられると言う事です。まあ私はそういう意味だととらせて頂いたんですけれども。
そういう意味での事を、例えば、御心眼と申しますけれども、ここで言われる御心眼というのは、そういうものではないと思うですね。言うならば神様の心が分かると、神様の御恵みが御恵みとして感じられると言う事だと思うんです。例えばちょっとまあ問題があると、その途端に憂鬱になってしまう。神様の心が分かる、いわゆる肉眼をおいて、心眼を開いておくとです。それがはっきり、神様の御恵みであるということが分かる。神様の御恵みが御恵みとして、分かってくるようにならなければ。
金光様の御信心のおかげというか、おとくというのは頂かれません。難儀を難儀と見ただけでは、ただその難儀からおかげ頂かして下さい。おかげ頂かして下さいと言うだけ。この頃から、難儀な問題のお届けがあった。この頃ちょっと信心がおろそかになっておった。そこへまあどうですかまあ一つの病気でしょうね。殆どおかげ頂いておったその持病のような病気が出てきた。そこで慌てて神様へお願いさせて頂いたと言う訳です。それで、私が神様から頂くのはね、やつでという植木がありますね。
やつでの葉がもうこうしおれてしまっておる所を頂いた。やつでというのはね、おかげ頂きたい。おかげ頂きたいというという心だというのです。その八つ手のごたる手ば、差し出してばっかりおるという。それでもね神様はおかげ下さるけども、その八つ手の神様へ差し出すその心までも、しおれてしまっておるとこう言うのです。だからおかげを頂くと言うても、心が生き生きしとらなければ、おかげが頂きにくい。最近のようにそれこそ疑うてでも一心にすがれば、おかげになるというのもです。
例えば疑うておっても、一心にお願いをするという気になればと、ただその一心にお願いするというその心が、生き生きとしてると言う事なんです。それはなら本当に神様を信じてお願いをしておるという人は、厳密に言うたら非常に少ないです。言うならば神様を信ずる心も半信半疑です。けれども矢張り縋らなければおられないから、縋るだけの事。その一心に縋るという心がです。生き生きとした心ですから、神様がおかげを下さる事になるのです。
枯れ木がいかに天に手を差し伸べておっても、それを伸しようはないと神様は仰る。それに花を咲かせてくれと言うても、花が実を付けてやる事が出来ん。矢張り生き生きとしとらなければ分らんなりにでも、生き生きしとらなければいかん。その生き生きした心でお縋りをする。それがおかげを受けるのです。所が「肉眼をおいて心眼を開く」と「心の眼を開く。」と言う事はです。その事をおかげ頂くと言う事ではないのです。どうぞおかげを頂かせて下さいというのではないのです。
その事に対してお礼を申し上げる事なのです。それをただおかげを下さい。おかげを下さい。というのはならおかげを頂いても、只おかげを頂いたというだけで、信心の言うならば成長にはならない。お徳を受けていく道にはつながらない。心の目を開かせて頂くと、そのおかげと難儀と見えておるその事柄も、難儀ではなくて所謂、神の恵みと言う事が分かる。神の恵みと言う事が分かるから、その事に対してお礼が言えれる。
本当に最近は、御粗末御無礼になっておって、信心がおろそかになっとりましたから、神様がお気付けを下さっておるんだと思うたら、お詫びをする以外にはないし、又はお礼を申し上げるよりほかにない。そういう生き方をさせて頂きませんと、信心が進まない。神の恵みを人知らず、ただ自分の都合の良いこと言うならば、秋の実りなら秋の実りという。実りの事だけがお恵みのように思うておる。
けれども実際はそれと反対の事であっても、より神様の心を使われる。より神様の思いを切実にした所の神様の御恵みなのですけれども、それが肉眼的な見方だけでは、それが分からない。だから苦しいだから神様、助けて下さいという願いだけになってしまう。願いそしておかげを頂くというたのだけで、ただ願っておかげを頂いたというだけで、信心が進んでいかん。心の目が開けていかない。
「肉眼をおいて心眼を開け」と。心の目を開いていくと言う事は、結局私は真の道を行く人はと仰る。真の道を行かなければ肉眼をおいて心眼は開けない。真の道を歩くからには、真の人を目指さなければ出来ない。真の人を目指しはじめて真の道がある。その真の道が分かる信心をさせて頂くから肉眼をおいて心眼が開けてくるのです。心眼が開けてくるから、神様の思いが分かるのです。
神様の御恵みが、本当に御恵みとして分かるのです。だから結局は、私共が真の人を目指すと言う事が信心だと。だからそこん所をおいて、心眼は開けません。本当の意味においての神様の御恵みを、御恵みと知る事は出来ません。ならどげなふうにすれば心眼が開けるだろうかと。結局真の道を行く人は、と仰せられる真の道を行かなければ。ためには私自身が真の人を目指さなければならない。
言うなれば本当に自分自身の助かりを願わなければならない。心の助かりをそれが結局真の人を目指す事です。真の人にならせて貰おうとも願わず、又はそれを真の人になることの、努める事もせずして心眼を開く事は出来ません。心眼を開かれる所に人間の、言うならば助かりが約束されるわけであります「真の道をゆく人は、肉眼をおいて心眼を開けよ。」「神の恵みを人知らず親の心を子知らず。」と。
神様は言うならば、神の嘆きとでも申しましょうか。だから神を嘆かせると言う事であってはならん。そういう信心であってはならん。ただおかげを頂くということだけの信心であってはならん。私自身が真の人を目指すために、教えを頂くのである。真の道を分からせて頂くために、お話を頂かせて頂くのである。ここが根本なのですね。
どうぞ。